Zとともに、 レースとともに

VOL.303 / 304

柳田 春人 YANAGIDA Haruhito

株式会社セントラル 取締役 会長
1950年 埼玉県深谷市出身。18歳で本格的なレースにデビューウィンを飾り、レーシングドライバーとなる。約20年間に渡るレース活動から一線を退いた後は1975年から代表を務めるチューニングショップ「セントラル20」を経営する傍ら、現在はASEAの事業部長としてモータースポーツの振興に尽力している。

HUMAN TALK Vol.303(エンケイニュース2024年3月号に掲載)

1970年ごろよりフェアレディZを駆り、数々のレースで優勝を飾ったことから「Z遣いの柳田」の異名をとる往年の名ドライバー柳田 春人氏。 フェアレディZ専門チューニングショップ「セントラル20」の代表としても名を馳せる一方、レーサー引退後の現在ではASEAの事業部長としてモータースポーツ業界の振興に尽力している氏にレーサー時代のお話からASEAのことまで広範にうかがった。

Zとともに、 レースとともに---[その1]

柳田氏は1950年、埼玉県北部の深谷市で生を受けた。幼少期より車が好きだったこともあり、16歳になるとすぐに免許を取り車に乗り始めた。「当時は16歳になれば軽自動車運転免許が取れましたから、母親の軽自動車を貰ってそこら中乗り回していました。その車でジムカーナに出たりサーキットを走ったりと、まあ車好きの趣味ですね」

Photo 原 富治雄

ターニングポイント

「16、17歳の頃は軽自動車でジムカーナのレースに出たりしていたのですが、全然素質は無くていつもビリの方でした(笑)。その頃、富士スピードウェイにレースを見に行った帰りに乗っていた軽自動車が追突され全損になりまして、追突した人がポンと80万円くらいくれたんです。当時フェアレディの新車が大体80万円くらいでしたので結構な金額でした。僕はそのお金でSRのフェアレディ2000の中古を50万円くらいで買ったんです。そのSRが全ての始まりでした。足回りやホイール、マフラーなどを改造しまして、すぐレースに出たんです。富士スピードウェイで行われた「富士100キロ ロードレースミーティング」っていうレースで、出場車種もフェアレディやスカイライン、ホンダS800などバラエティに富んだレースでした。予選は3位だったのですが、ひょんなことか本戦で優勝してしまった。そうしたらある人がレース後に飛んできまして「あんたプロにならないか」ってSCCN(日産スポーツカークラブ)に誘われて、それが私のターニングポイントでした。本当はこのレースに出たらレースは辞めようと思っていたんです。でも優勝して、声を掛けられて、自分にも何か素質があるのかなというか、勘違いのようなものかもしれませんが、それでも何か自信が芽生えた。そんな瞬間でした」
 こうして柳田氏のレーサー人生は、ただ一回のレースをきっかけに運命の歯車が大きく変わっていったのでした。

レーサーとしての芽生え

「だから僕の場合はレーサーになりたくて夢を追いかけてレーサーになったというよりも、スカウトされたから『それじゃあやってみようかな』という感じで(笑)、あまり将来のことは考えていなかったかな。でもそれまで色々な趣味を経験していましたけれども車だけは飽きなかった、それだけは言える。車に関することだけは熱中できたし、どこまでのめり込んでも飽きることはなかったですね」
 SRで走っていた頃はまだアマチュアの延長のようなノリだったが、フェアレディZに乗るようになってからは日産の援助を受けながら本格的なレーサー人生が始まっていったという。「ジムカーナをやってみたら僕は全部オーバーステアでコーナーに入ってしまうから『これは合わないな』と思っていたんですけど、富士のようなサーキットだとなぜかちゃんと走れる。自分の走り方に合っていたんですね。でも最初のレースを迎えるまでは毎周どこかでクラッシュして1周もまともに走れなかった。それでもレース本番になるとすごく緊張してその緊張が力に変わって上手く走れていた気がします」

『雨の柳田』の異名

 そして1970年代前半からは富士グランチャンピオン(GC)シリーズへと参戦する。駆るのは代名詞ともなった『フェアレディ240ZG』。一方柳田氏は悪天候のレースで抜群の強さを発揮し『雨の柳田』の異名を取るまでとなった。「ある大先輩に『雨の日は直線が一番怖いけど、水溜まりがあるところはアクセルを戻すから危ないんだよ』と教わったことがあって、そういうことかと(笑)開眼し、車が横になろうが前が見えなかろうがアクセルは踏んでいました。ところがある時のレースで前が見えないほどの酷い雨だったこともあり、前を走るトヨタ2000GTにストレートで追突してしまい2台とも全損になってしまったんです。当時は今ほど車の剛性や安全性能も高くないから危なかったんですが、幸いにも怪我は無くて。でもそれから雨の日に攻めるのがちょっと怖くなってしまった、なんてこともありました」
 そんなレースでのエピソードで一番思い出に残っているのはと伺うと「やっぱりグラチャンですよね。オープン2シーターの車やフェアレディZ、スカイラインなど色んなスポーツカーが混走して競うわけです。ある雨の日のレースで7リッターV8エンジンのマクラーレンM12を抑えて総合優勝を飾ることができた。マクラーレンよりも車重が重かったZで雨の日に優勝できたことは殊更思い出深いですね」
そして1980年代が終わろうとする頃、柳田氏は長いレーサー人生に一つの区切りをつけることとなった。

1971年 日本グランプリ第2戦では3位となった

昭和50年代当時の社屋

HUMAN TALK Vol.304(エンケイニュース2024年4月号に掲載)

Zとともに、 レースとともに ---[その2]

 レーシングドライバーとしての名声の一方で「セントラル20」の顔としても高名な柳田氏。レーサーとチューニングショップオーナー、2つの顔をどう切り替えていたのだろうか。「私がセントラル20を立ち上げたわけではなく、店は元々あったんです。私が20代前半の頃そこへアルバイトで働きはじめて1年も経たないうちに『店を買ってくれないか』という話を持ちかけられ、一念発起して買ったというのが始まりです」

セントラル20最新のRZ34デモカーの前にて 息子でレーサーの真孝氏と

現在のセントラル20社屋

レーサーとショップオーナーの 2つの顔

 「私が22、23歳の頃、世の中はオイルショックによる不景気が到来しまして、それまで好調だった景気に急ブレーキが掛かったわけです。私もレーシングドライバーだけではちょっとこの先食っていけないだろうなと思うところもあって、それでチューニングショップを作ろうかと考えていた矢先だったんです。そうやって将来のことを考えてレーサーがショップを開くというのは当時としては早い方で他にはそんなにいなかったんじゃないですかね。まあレーサー現役のころはレースとショップの力配分は9対1くらいでほぼレースでしたが。セントラル20自体も当時はフェアレディZ専門ではなく幅広い車種を扱う普通のチューニングショップでしたし、スタッフも自分以外に4、5人いましたから自分がそれほどショップに傾注しなくても回せていたということもありました。余談ですが元トムスの伝説的なメカニック、今西豊さん(故人)もセントラル20にいたことがあるんですよ」
 普通のチューニングショップだったセントラル20は柳田氏の活躍とともにフェアレディZ色を強めていくこととなる。
 「やっぱり私がずっとZでレースに出ていたこともあって自然とZのお客さんが増えるようになっていきました。特にZ31からZ32の頃にかけてはZ専門店としての色を強くしました。Z32の時代にはエンケイさんでZ専用のホイールを何百本と特注してもらったこともありました。今でもZオーナーのミーティングなどに行くと、大切に新品で持ってらっしゃる方がいるんですよね。好きな人はそうやって宝物のように扱ってくださる。ありがたいことです」

2018年NISMOフェスタにて
サファリラリー仕様のフェアレディ240Zをドライブ

エンケイに別注したホイール(写真奥)

モータースポーツの振興に尽力

 一方で柳田氏はNAPAC(日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会) ASEA(AUTOSPORT & SPECIAL EQUIPMENT ASSOCIATION)事業部の事業部長としての顔も持っている。ASEAとは日本のモータースポーツとアフターマーケット業界をサポート、発展させていこうと設立された業界団体のこと。そこでは具体的にどのような取り組みをしているのだろうか。
 「最近の主な取り組みでいえば「GR86/BRZ Cup」の指定/認定部品事業があります。これはASEAの上位機関であるNAPACが認定したパーツを装着しないとレースに出場できないというレギュレーションです。それこそトランスミッションからゴムブッシュに至るまでレース車両を構成するあらゆるパーツについて指定/認定をしています。1回のレースに100台以上がエントリーする大変盛り上がっているレースです。
 またNAPAC/ASEAでは富士スピードウェイで行われる「NAPAC 富士SUPER TEC 24時間レース」の冠スポンサーを4年続けてやっております。こちらもかなり大きなレースですのでNAPACという名前の認知に大いに貢献したのではと自負しております。富士といえば年2回開催される走行会も主催しておりまして、こちらも定員100台が参加する日本でも有数の人気を誇る走行会となっております」
 2020年から始まったコロナ禍はアフターパーツ業界にどんな影響を与えたのかについては。
 「それがNAPACの会員各社の話を聞くとコロナ禍でも事業としてはそんなに悪くは無かったという声は聞きます。コロナ禍で外食や旅行業界などは打撃を受けましたが、自動車も含め釣りやキャンプなどアウトドアで一人でも楽しめる趣味は逆に追い風だったかもしれません。とはいえこれからももっと盛り上げていかなければと思っています。我々としてはアフターパーツの登録制度、認定制度というものをもってアフターパーツやアクセサリーの信頼性や安全性を担保することが業界団体としての責務だと考えております」。

富士で行われたNAPAC主催の走行会

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